田中光顕 [たなか みつあき]1843(天保14)年~1939(昭和14)年
明治の宮内大臣。土佐藩士、幼名は顕助、青山と号す。 武市瑞山[たけち ずいざん]に師事し、勤王党に属して、尊王攘夷運動に加わった。1863(文久3)年八月十八日の政変で藩論が一変し、自宅謹慎。のち中岡慎太郎に兄事し、薩長同盟の周施に協力し、陸援隊を統率した。維新政府では、明治4年の岩倉具視[いわくら ともみ]の随員として、欧米諸国を巡遊。明治10年の西南戦争で征討軍の会計部長として功あり、39歳で陸軍少将に任命されたが、武職には一度もつかなかった。また元老院議官・警視総監・学習院長を歴任し、明治28年宮内次官、31年宮内大臣となり、その後11年大臣職にあり、宮中に大きな力を持った。 退官後は「維新烈士」の顕彰に余生をささげ、多摩聖蹟記念館、大洗の常陽明治記念館(現在の「幕末と明治の博物館」)、郷里佐川の青山文庫の建設や維持に貢献した。明治40年伯爵を授与される。年97歳にて没。
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